発達障害について(その2)知的発達の遅れ(知的障害)とは

子どものこころ13.png

発達の問題を考える際に、まず取り上げないといけないのは「知的障害」です。もともと「知的障害」と「発達障害」は別のカテゴリーだったのですが、現在では同じ枠組みの中で考えられることが多くなりました。すなわち、発達が全体的に遅れているのが知的障害で、部分的に遅れているのが発達障害です。

知的障害とは「知能(考える力や記憶する力)が遅れていることなのでは?」と思われるかもしれません。それは間違いではないのですが、知的障害において遅れているのは、いわゆる「知能」と呼ばれる学習に関わる機能だけでなく、脳の働き全体に及びます。そのため、知的障害の場合、学習成績が悪いだけでなく、運動も苦手だったり、コミュニケーションが苦手だったり、衝動のコントロールが甘かったりもします。どの部分が目立つかは個人差があり、それがすなわちその子の個性なのですが、全体的にいろんなところが弱いんだと理解してもらえればよいでしょう。

発達の段階には個人差がありますが、大まかに「生後〇ヵ月(〇歳)で何ができるようになる」というのが決まっています。そのため「これができれば〇歳〇ヵ月相当」と判定することができ、それを精神(発達)年齢といいます。子どもの精神年齢(〇歳〇ヵ月)を実際の生活年齢(×歳×ヵ月)で割って、発達の程度が実年齢相応の何%に当たるかを計算したものが発達指数(DQ)や知能指数(IQ)です(発達が実年齢相応だと100になります)。

発達指数は就学前に使われることが多く、運動や言葉、社会性の総合的な発達の指標です。知能指数は知能検査によって判定されるもので、知識・記憶や思考など学校での学習に関わる能力の指標となります。発達のスピードには幅があるので、おおむね実年齢相応の80%程度なら正常域と考え、それを下回ると「発達に遅れがありそうだ」と考えます。

知的障害は、はっきりした原因がわからず生じることが多いのですが、遺伝的な病気や神経の病気、妊娠や出生時のトラブルによって生じることもあります。

画像10.png

原因がわかっているもののうち、いちばん多いのは染色体異常のひとつであるダウン症によるものです。明らかな原因疾患を伴うものは遅れが重度であることが多く、乳幼児期から運動発達の遅れ、言葉の遅れなどが明らかとなります。しかし、実数として多いのは、とくに目立った原因疾患はなく、その子の脳の特性として発達がゆっくりであるというものです。重度の遅れがある場合、その子なりには成長していくのですが、遅れを取り戻すのは難しく、生涯にわたる「障害(disability)」と捉える必要があります。しかし、軽度の遅れ~境界域の場合には、環境整備や働きかけによってキャッチアップすることもあり、明らかな「障害」というほど固定的なものではありません。

実際、少し遅れがあったとしても日常生活にはそれほど困ることはなく、ふつうに会話もできますし、周囲から見てもとくに障害があるとは感じられないでしょう。とはいえ、学校に入学して勉強が始まると、なかなか勉強の内容が理解できない、周りの動きについていけずに一歩遅れてしまう、考え方や行動が刹那的で思慮が足りないなどの問題が生じます。このように書くと「程度としては軽いんだね」と感じられるかもしれませんが、障害としての「軽度」と実生活における困難の程度というのは比例しないのが厄介なところです。

勉強がわからないのは学校生活を苦痛にしますし、全般的にいろんなことがゆっくりなので、周囲の流れについていこうとすると、すごく頑張らないといけません。そして、頑張りすぎるといつか疲れてしまうのです。勉強ができない、周りの動きについていけないことで馬鹿にされる、会話についていけないことで仲間に入れないと感じる、そんなことが続くと子どもは自己肯定感がどんどん低下してしまいます。それは、思春期に入るとさらに顕著となり、クラスメイトはどんどん成長し、興味の対象も話題も変化していくのに、その変化についていけずに疎外感を抱え、その結果、学校に行けなくなることもしばしばあります。

画像11.png

「不登校は誰にでも起こり得る」というのは事実ですが、不登校の子どもが能力的に正常下限域~境界域であることが多いのもまた事実です。不登校になって検査をして、初めて能力的な問題が明らかになる場合もあり、これまで通常学級でみんなと一緒にやってきたのに、ある日突然「障害がある」といわれ、子どもも親もなかなかその事実を受け入れられずに苦悩するというのもよくあります。

ただし、受け入れられないのは、能力というものを「正常」と「異常(障害)」に分けて考えているからかもしれません。軽度の知的障害の場合、学校の勉強は難しくても社会で何もできないわけではなく、その人のペースで、その人に合った仕事に就くことができれば十分に社会の役に立ち、自立して生きていくことができます。学生の間は、どうしても学校的な学習が生活の中心ですし、同年代の子ども同士で集められ、周囲との比較のなかで生きていかなければならないのが現実で、いくら「気にしないで」と言ったところで気にならない子はいないでしょう。しかし、社会に出ると、勉強と努力は必要ですが、学校的な学習からは解放されます。周囲との比較もないわけではありませんが、学生時代ほどあからさまではありません。自分自身が自分を認めて生きていくことができれば、十分幸せに生きていけるのです。

「人生における幸せと、IQ値には何の関係もない」といわれます。また、人間の価値も学校の成績とは何の関係もありません。IQ値や学校の成績にこだわらず、自分に合った環境を見つけ、生活を充実させていくことが、充実した人生につながります。そのような価値観を子どもに身につけさせるのが、子どもの育ちに関わる大人の役割ではないかと思います。

著者

長崎県立こども医療福祉センター副所長兼医療局長 小柳憲司
著者 小柳憲司(コヤナギ ケンシ)
所属・役職 長崎県立こども医療福祉センター副所長兼医療局長
長崎大学医学部、長崎大学教育学部、佐賀大学医学部、長崎医療技術専門学校非常勤講師
専門領域 小児科学、心身医学
主な著書 身体・行動・こころから考える 子どもの診かた・関わりかた(新興医学出版社)
学校に行けない子どもたちのための対応ハンドブック(新興医学出版社)
この記事の感想をお聞かせください
  • 学びがある0
  • 分りやすい0
  • 役に立った0

この記事についてのご意見やご相談等をお送りください。

ご意見ご相談

前へ

発達障害について(その1)総論

次へ

発達障害について(その3)注意欠如・多動症